昭和五十一年十二月十七日朝のご理解
                            松永享四郎

ご理解第二十節
「此の方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の云うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。云うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」


 中々親の云う事でも、それがそうに聞けない事もあるし、また、判らんで聞かんと云う事もあります、けれども、親孝行な子供は、判らんでもそれを聞こうと務めます、いや、違うておると思うても、云う事を聞きます。
 私は思うのに、親が云う事を、それがそうに聞けなくても、聞く姿勢をつくると云うだけで、親は嬉しいと思います、例えば、やる気充分でなくても、親の云う事に聞き耳を立てると云うでしょうが、そして、成るほど親の云う事が本当なんだけれども、中々体が云う事を聞かない。
 初めから抵抗すると云うか、初めから反抗すると、それこそ、初めから疑うて聞かない者は仕方がない、これはもう親でも仕方がない、けれども、親の云う事を聞こうとする姿勢を作るだけでも、親は嬉しいもんである、その親の嬉しいと云う心が、おかげにもつながる、親の云う事を例えば泣く泣くでも聞く子はお徳が受けられる。 そこで、ここではどう云う事になるかと云うと、此の方云うならば、私がです、金光大神の教えて下さる事を、聞こうと思うけれども、判らない事が沢山ある、余りにも広くて深くて、もう言葉の意味と云うのが、大変に広くて深い。
 私が、こうしてお取次ぎさして頂く様になって、20数年間、来る日も来る日も、教祖金光大神が、神様より受けられたお話、または体験をされたお話、然も絶対に間違いのないお話を、まあ云うなら若い時から、この教典をどれ程読ませて頂いたか判らん、判らないけれども、読ませて頂いておるうちに、言葉の深さ広さが段々判って来た。
 20数年間、私も頂き、皆さまも頂き続けて来た事で判る様に、教祖様のお言葉の心の深さ広さと云うものは、もう限りない、例えばみ教えはたったこれだけなんですけど、これだけを、20何年間云うなら、毎日30分づつ位聞いて貰うて来た、然も、毎日30分じゃない、私が毎日毎日皆さんに聞いて頂いておる事を合わせると、どれだけの時間になるか判らん程しに聞いて貰っておるけれども、未だ尚、説き足らない、未だ尚、判らない事が多いと云う訳なんです。
 そんなに大きい、それは丁度天地の神様のお心の様に、広くて深いのです、限りない、おそらく私が一生掛かってこれを説いて、なら、説き明かす事は出来ません、説き明かす事に一生懸命精進さして頂いとるけれども、中々判らん、ですから、毎日毎日が楽しい、ああ今日は、どう云う事を頂くだろう、どう云う事を風に頂くだろう、とこう思いますから、ね、頂く姿勢を云うなら作っておる、中々行の上に表す事は、まあ出来ませんけれども、神様が頂く姿勢を作っておる事だけで、おかげを下さっておる様に思います。
 合楽では、ですから、それを頂いて行ずる事になったら、もう必ずお徳を受けます、まあ云うなら、親の云う事を聞かん子が一番つまらんと云う氏子になってはならないと、云う事であります、信心しておれば、皆云う事聞いておるかと云うと、云う事聞かん。
 これが本当だよと云うても、それこそ、昨日のお説教の中に申しました様に、自分の我がそれを受け入れようとしない、信心が進まない、進展しない、勿論だからおかげも進展しない、私はね、自分の心がこう、深く広く飛躍していくと云う事が、楽しいと云う信心にならなければ、駄目だと思うのです。
 只、一生懸命参りよります、拝みよります、毎日同じ事を、繰り返し繰り返し、お頼みしてお願いしよります、それがね、本当に成就しないと云うか、堂々回りのおかげにしか、なっていないとするならね、自分の心の云うならば、頂こうと云う姿勢が、先ず無いと云う事を、先ず思わねばいけません、ね。
 同時に例えば判らんでも、それを泣く泣くでも、それを行事よう、頂こうと、いや判らんなら、もう一遍ご理解を頂き直してでも、判らんなら、もう一遍そこんところを追及して、云うなら、お伺いでもさして頂いて、判ろうと務めると云う事が有難い、そして、判らなくても、その務める心に、おかげが受けられるのです。
 それが、判って行の上に表させて頂いたら、もうこれは絶対お徳の頂けれる道は、そこから開けて来るです、これは、行じて見なければ判らない、親の云う事を本気で聞こうと姿勢を示しただけでも、親は嬉しい、もうてんで聞こうとしない、それこそ、神様は、親はこんなに悲しい事はない、もうそれこそ、此処にお仰有っておられます様に、時を待っておかげを受けるが良し、銘々子を持って合点せよと。
 親の云う事を聞かぬ子は一番つまらん、それこそ、親でも仕方があるまいがと、仰有っとられます、ね、これは、神様の悲しみです、だから、神様を悲しませてはおかげにならん、なら、皆さんこうやって、毎日朝参りさせて貰う、日参りさせて頂こうと思っておる皆さんがです、只、参って来るだけだ、自分の苦衷を、神様に訴えるだけ、只、参っておる。
 本気で、み教えを頂こうとする姿勢を作らなかったら、神様の喜びは受けられない、判らんでもよい、例えば、行じえなくてもよい、けど、本気で親の云う事を聞こうと云う姿勢を示さなければいけません、もう一生懸命聞きよるが、判る事は判りよるじゃろうかと、心に頂く姿勢を作っていないから、只、云うならば、馬の耳に念仏と云う様な事になってしまう、それは、もう聞いていないのと、参りよりますから、ご理解頂きよりますから、と云うても、頂いていないのと同じ事になる。
 私は、本当に悲しいと云うて、何ですか淋しい事は、今、合楽理念の確立と云う事が盛んに、毎日お話に出ております、もう愈々合楽始まって此の方、云い続けて来た事すべての事柄の上に、御の字を付けて頂きましょう、私は今日は特に、信心の道を表しましょうと云う事、信心の真を表そう。
 果たして、これ程云われておる信心の真を、どれだけ表しておるだろうか、愈々成り行きを大事に、成り行きを尊ばせて頂こうと、成り行きそのものが、神様の御働きなのだから、その神様の御働きをお粗末にしたんでは、神様をお粗末にするのと同じなんだから、成り行きを愈々大事にして行こうと精進させて頂き、愈々頂く姿勢を、お互い、作っておるだろうか。
 これなんかどう云う事かと云うとね、此の方が天地金乃神より、おかげを受けておる事を、話にして置くと仰有る様に、私、大坪総一郎が神様から頂いて、そして、絶対の確信を持って、おかげの実証を示しながら、皆さんに聞いて頂いておる、ですから、もう間違いなく、おかげが、姿勢を作れば、おかげが頂かれ、それを行ずれば、お徳が受けられるほどしの話なんです。
 それを聞く姿勢をどれだけ作っておるか、実際どれほど、行の上に表しておるかと云う事を、もう一遍ここで、思うてみなければいけません、ここで、皆さんに聞いて頂いとるのは、殆どが、私はこう云う風うに思うとか、じゃあなかろうかと云うのではなくて、そうだと云っているのです。
 この事は、間違いない事だと、神様から頂いた、云わばお知らせであり、そして、私が行じて、そしてそれを形の上に、おかげに表して行っておるのですから、もうあらゆる角度から見て、絶対の事ですから、皆さんがここんところを、愈々頂く気にならなけらばならないのですけども、それがおかげになって表れていないとするならば、まあだ、頂き方が足りないのだと、と云う事を一つ判らせて貰うて、云う事を聞かぬ者は是非に及ばずと、神様を、私は、悲しませてならない。
 私共が、も少し本気で此の方の云う事を、云うならば、さっき申しました、金光大神の云う事を、背かぬ様にとか、金光大神が神様から直接頂かれた、又、自分が体験されて、間違いないと実証されて下さってある、このみ教えが、余りにも、ある場合には素朴であったり、ある場合は、その言葉の裏の深さに、私共が判らんなりに、表面だけ頂いておっただけでは、おかげにならなかったと、云う事を、私は日々体験させて貰っておる。
 そして、その日その日頂いておる、ああ、このご理解は、こう云う深さがあったのだなと、云う事が判ると、その深さに触れて、心にもう喜びが踊って来る、その喜びが踊って来る、それで、行の上にそれを表して行く、確かに例えば、一例を云うと、シャリベン太郎がとか、金の扇がと、開けるぞと頂いたら、それを頂く事のための姿勢を本気で作ると、確かにおかげを頂くと云う事実をです、皆さんに聞いて頂いておる訳ですから、それを皆さんが本気で行の上に表して行かなきゃいけない。
 とりわけ、今、云われる合楽理念と、銘々のところで、永年頂いて来た信心で、銘々のところで、合楽理念を、銘々の信心で、私は、確立して行かねばいけないと思う、そして、為そうと思えば子供でも成せる事を、お粗末にして来ておった事柄などはです、本気でそれに取り組ませて貰うて、おかげを蒙る、完璧に入ったその信心を、愈々完璧を目指して信心を進めて行くと云う事であります。
 私は、今日はね、云う事を聞かぬ子は親でも仕方あるまいがと、お参りをして来て呉れる、お話を毎日頂いておる、と云うてもそれと同じ人があると云う事です、何10年間お話を頂いて来ておるけれども、お話を聞きゃおるけれども、全然それを行じない、だから、それを本気で、云わば聞く気になり、本気で行じ様と云う気になればです、聞き耳を立てただけでも、おかげが受けられる、それを行ずる事になれば、お徳が受けられる。
 例えば、本気で聞く姿勢を作っただけでも、その姿勢を示しただけでも、親は嬉しいもんだ、その親の嬉しい心が、おかげに反映して来る、親様が云われる事であるからと思うて、それこそ、泣く泣く辛抱しいしいにと、三代金光様が仰せられて、親様が云われる事であるから、座っとれば楽と仰せられるから、座っておるけれども、楽ではなかった。
 それこそ、泣く泣く辛抱しいしいに座っておりましたら、思う事も無くなり、欲しい物も無くなり、只、有難うて、有難うてと云うお心が開けてみえられた、泣く泣くでも辛抱しいしいにと、それを行ずる気になればです、思う事も無くなり、欲しい物も無くなり、所謂、我情も無くなり、我欲も無くなると云う事です。
 そこには、わが身は神徳の中にある事実を、云わば日々有難うて、有難うてと云う事になっとられるのです、三代金光様は、だから、それを、泣く泣くでも行ずる気になればです、只、座っとれば楽と仰有ったけれども、楽ではなかった、神様が嘘を仰有ったとは云わずに、やはりそれを辛抱し抜かれている内にです、思う事が無くなり、欲しい物が無くなられ、所謂、我情我欲が無くなられて、有難うて、有難うてと云う、神徳の世界にお住まいになられる事が出来られた。
 それでも、尚かつ、生身を持っておられる、金光様のご自覚とでも申しましょうか、これ程しのおかげ頂いておるのに、お礼の足りない、お詫びばかり致しておりますと、自然に仰有っとります、だから、金光様の信心をさせて頂く者は、すべからくです、そう云うご信心に神習わせて頂かなければ、それは、神習うと云うても、天と地程の相違はありましょうけれども、そう云う姿勢だけは作らなければいけないと云う事なんです。
 本気で一つ泣く泣くでも、辛抱しいしいさせて頂いておるうちに、お徳が受けられる、今日はそこんところを聞いて頂いた、例えば、聞き耳を立てる、聞こうと思うただけでも、親は嬉しい、だから、そこにはもうおかげが反映して来ると云う事です。
 だから、本気で云わば頂く、云うなら、頂く楽しみが判る信心を頂きたいですね。     どうぞ。